Kimlahimvic’s Diary

Rock, Book, Beer, and Soccer などのとりとめのない話

フジロックの黒歴史!? 思い出のフジロック2004を振り返る④

■3日目
 
昨日も朝までレッドマーキー、オアシスエリア、パレスオブワンダーなどを流し、
朝の5時。
 
今ではテントサイトの脇からプリンスホテルの浴場に行けるが、
当時は宿泊客以外使えなかったように思う。
 
その代わり、今でもあるコインシャワーを皆つかっていた。
 
気温の低い朝の5時、コインシャワーのバルブをひねると、出てきたのは冷水…。
 
凍えそうになりながらもなんとか体を洗い、
震えながら出てくると目の前にはニコニコしながら
ハイテンションでソフトクリームを売る兄ちゃんが。
 
なぜかその兄ちゃんのテンションに乗って、
友達と二人でソフトクリームを食べながらテントに戻ったのでした。
 
寒かった…。
 
 
 
さて、この日はグリーンステージでリバティーンズから。
 
レッドのサンボマスターから轟音と大歓声が聞こえてくるのを横目に、
クラブスヌーザー以来のリバの4人を待った。
 
この時すでに解散説が流れていて、ちゃんと登場するかひやひやしたけれど、
ステージセッティングでマイクが左右に2本置かれていたのでほっとした。
 
しかしこの広いグリーンステージの左右にマイク2本は、
このバンドには広すぎたと思う。
 
クラブスヌーザーで、リキッドルームの狭いステージで
マイクを取り合うようにして歌ったステージを見ているので、
どうしてもダイナミズムに欠ける印象になってしまった。
 
 
 
そのままグリーンステージに残り、JET
この年、いかにロックンロール・リヴァイバルが
ムーブメントだったのかがわかりますね。
 
もちろんハイライトは『Are you gonna be my girl?』
この年のiPodのCMに使われ、iPodもJETも世界的に有名にした曲だ。
 
 
 
そして、フジロックに行く前から一番楽しみにしていたのは、The White Stripes
 
私的にはロックンロール・リヴァイバルムーブメントの真打で、
JET同様、『seven nation army』がムーブメントを代表する曲となっていた。
 
夫婦なのか、姉弟なのか、その当時はわからなかった謎めいた二人。
 
二人を間近で見たくて、前列4列目くらいまで行った。
 
アンプの上に像の置物が置いてある。
 
二人登場。いつもの紅白の衣装。メグは裸足だ。
 
ライブが始まってからはもう熱狂の渦で、あまり覚えていない。
 
ストライプスはその後全てのアルバムを聞きこんだし、
Janisでブート盤も借りて聞き込んだ。
 
カバーしているブルーズの名曲にもさかのぼり、
リスニングライフを広げてくれた、本当に思い出に残るバンドだ。
 
 
 
さて、例のアレ、モリッシーだ。
 
The Smithのフロントマンであるモリッシーは、
気難しい変人としても知られていたが、
どういう理由かは覚えていないが、直前にドタキャンしていた。
 
急に穴の開いた3日目の大トリの枠がどうなるのか、
何もアナウンスがないままだったので、興味本位の人も含めて、
結構多くの人、が集まっていた。
 
 
 
そして…
 
 
 
日高大将のドタキャンのお詫びとともに呼び込まれ、
威勢よく入ってきたのはスミスのコピーバンドThese Charming men
(もちろんスミスの名曲『This Charming man』のもじり・・・)
 
 
最初何が起きているのかわからず、あぜんとしていた聴衆も、
スミスのヒットメドレーを始めるおっさんを目の前にして、
スマッシュの苦肉の対応と、
日高大将の苦し紛れのユーモアをようやく理解し、
あるものは起こりながらホワイトのベルセバに流れ、
あるものはチャーメンに暖かい声援を送っていた。
 
(数で言うとほとんどの人はベルセバに大移動して、すぐに閑散となった)
 
私はというと、どうしたか覚えていない…
最後の夜遊びのために、一回テントに戻ったような…
 
 
 
さて、今年のフジロック最後の演目、
大トリの後のクロージングは渋さ知らズオーケストラ
 
皆で見ましたが、寺山修司の人形桟敷のような白塗りの舞踏集団がいたり、
かなりカオスなステージだった。
 
同行メンバーのバイトの先輩?が渋さのメンバーで、
ギターかなんかを弾いていたような。
 
 
 
そんなこんなでフジロックは終わってしまいました。
 
 
 
翌日の撤収も当然のごとくサイト閉鎖ギリギリになってしまい、
係員に促されながら苗場を後にした僕ら。
 
車中ではベストアクトを言い合ったりして話も盛り上がり、
行く前より皆と仲良くなれた気がしましたが、
女性メンバーは都内に入ると下北沢につく前に、
思い思いの場所で降りていき、
一目散に帰って行きました・・・。
 
残った男性メンバーで車を返し、
ファーストキッチンでダラダラと感想などを言い合いながら夜まで過ごし、
帰りました。
 
 
100円のビニールカッパが役に立たなかったり、
足が疲れたり色々大変だったことはありましたが、
フジロックの楽しさにどっぷりつかってしまった2004年。
 
 
ここから、2000年代を通して、フェス人生が始まるのでした…。
 
 
 

フジロックの黒歴史!? 思い出のフジロック2004を振り返る③

■2日目
 
14時からのフランツ・フェルディナンド22-20Sがかぶってしまった。
 
友達は22-20Sにいったが、私はフランツを見にグリーンへ。
 
 
 
先だってリリースされていたフランツフェルディナンドの1stはポップでダンサブル、
それでいて非常に洗練されたサウンドで、
一連のロックンロール・リヴァイバルの中でも一味違う、という感じだった。
 
若さや勢いだけではない、技術や洗練というか。
サカナクションを初めて知った時にも同じように感じた感覚。
 
定刻ぴったりに登場したフランツのパフォーマンスは、
3日間を通して一番印象に残るものだった。
 
徹底したショウマンシップ。
キメキメのポージング、メンバー紹介。
 
演奏も上手で、若手バンドとは思えない百戦錬磨のステージで、
日本の観客を魅了した。
 
代表曲の『Take me out』以外の曲も実際にライブで聴くと
聞きどころがたくさんあることがわかり、ますますファンになった。
 
 
 
その後のBen Harperはフランツの余韻であまり思い出せない…
 
同行のメンバーたちは一番楽しみにしていた人が多く、皆で見たのは覚えているけど。
 
レッド・ツェッペリンの『移民の歌』を曲間に挟むパフォーマンスをしていたような。
 
 
 
またまたグリーンでコートニー・ラヴ
言わずと知れたカート・コヴァーンの妻(未亡人)だが、
あまりライブの情報がなく、どんなステージなのか興味があった。
 
しかし…冒頭からなんか不機嫌そうに喚き散らしながら登場したコートニー。
 
譜面台に置いた歌詞カードが風でめくれるのに苛立ちながら歌っていたが、
ひどいパフォーマンスだった。
 
最初はそういうキャラなので演出なのかと思っていたが、全くノレず。
数曲で後にした。
 
 
 
 
こちらはタイトな演奏、キレのあるボーカルで完全に女性ボーカル対決、
軍配アリという感じでした。
 
 
 
忌野清志郎は名前だけ知っていたが、
曲はほとんど聞いたことがなく(昼間のパパは男だぜ、くらい)、
正直なぜこのフジロックのラインナップに入っているのか、
よくわかっていなかった。
 
その後、フジロック(というか大将)と清志郎さんのつながりや
RCサクセションから続くその活動、名曲の数々を知るほどに、
清志郎こそフジロックを象徴する存在であることが実感されたけれど、
その時はついでに見ようかな~、くらいのノリで見た。
 
 
が。
 
 
感動した。
一曲も聞いたことがない曲ばかりだったが、
なぜか耳になじみ深いメロディと言葉。
 
歌詞がはっきりと聞こえるのもその一員であるように思う。
例のマントを使ったステージ・ショウなども含めて、清志郎に魅了されてしまった。
帰ってからはたくさん聞いた。
 
翌年のフジロックでももちろん観たが、
まさかそれが最後になってしまうなんて思わなかった…。
 
 
 
 
当時ヒットしていたアルバム『come with us』からの
『star guiter』『it bigan in Afirika』ももちろん盛り上がったが、
やはり最高潮は『Hey girl,Hey boy』。
 
その後ケミカルは何度も見るけれど、やはりこの最初の時が一番印象深い。
 
 
 
この日の夜もオアシスエリアを朝までたむろしていたと思う。
 
Armand Van HeldenのDJを見ようとレッドマーキーの後ろの方に行ったら、
数人でビールを飲みながら騒いでいた英国人の男たちが、
私が着ていた下北沢の古着屋で適当に選んだ、
500円のサウサンプトンのサッカーシャツを見て大喜びし出した。
 
彼らはなんとサウサンプトン出身の人達との事。
 
日本まで来て、サウサンプトンを知っている日本人がいた事に
びっくりしたようだった。
 
ジェームス・ビーティ―の名前を出すと、なお喜び、
レッドのテントの後ろのところで大盛り上がりした。
 
ビーティ―しか知らなかったけど、とっさに出てきてよかった~。

フジロックの黒歴史!? 思い出のフジロック2004を振り返る②

■1日目
 
テントサイトを降りてオアシスエリアを突っ切り、
レッドマーキーの後ろから入ってステージを覗いてみると、
 
唯一知ってて好きだった曲『君という花』が見れて良かった。
 
 
 
終了後、すぐにグリーンに移動し、ザ・ルースターズ
開演の前に日高さんが出てきて熱い呼び込みをしていた。
 
前の方は盛り上がっていたけど、正直、
ボーカルの大江慎也の外見がとてもロックミュージシャンに見えないおっさんで、
ジャンプも苦しそうにしているのを見てちょっとカッコ悪いかも…と思ってしまった。
 
私もまだ若く、良さがあまりわからなかったのだ。
 
 
 
数曲でグリーンを後にしてまたレッド、The Zutons
 
リバプールの新人バンド勢を集めた企画コンピ盤(The Coralがシーンの中心でした)で知ってて曲がいいと思っていたけど、こちらはステージもかっこよかった。
 
皆で白いブーケのようなそろいの衣装を着ていたような。
 
 
 
最後、数曲は泣く泣く離れ、林を抜けてグリーンステージに舞い戻り、PJ Harvey
 
真っ赤なタイトワンピースにギターを抱えて登場。どすの聞いた声が印象的だった。
 
 
 
グリーンで待っていると、夜も更けて空も紫色になってきた。
苗場の天気は変わりやすい。
 
あっという間に雲が出てきた。
 
なんとなく不穏な空気の中、半ば伝説となっていたThe Pixiesがその姿を現す。
 
ほ、ほんとにいるんだ…そしてやっぱりでかい!
ブラック・フランシスは本当に巨体だった。
 
暗闇に震えるギターの轟音。
 
『Where is my mind?』の緊張感、
『Debaser』の爆発、これぞフジロックというライブを見た。
 
最初のフジロックマジック。
天気と時間とステージと、観客の期待と、その日の演奏。
それが全てマッチしたときの奇跡。
 
 
 
レッドではUSオルタナの生ける伝説の名演を後に、
そのピクシーズを絶対聞いて育ったであろう、
90年代の米英ギターサウンドを受け継ぐバンド、スーパーカー
 
前半はあまりメジャーじゃない曲を中心にプレイし、
会場も少し静かだったが、
映画『ピンポン』の主題歌になったことで一躍バンドの存在を有名にした
『Strobolights』を皮切りに、『YUMEGIWA LAST BOY]』『Story Writer』
などで畳みかけ、最後は大盛り上がり。
 
 
 
そしてグリーンに戻り、ルー・リード
 
正直この時はヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の1stアルバム
(例のバナナのやつ)しか聞いたことがなく、
その曲やらないかなあ、と思いながら聞いていたが、
確かヴェルヴェッツの曲は『Pale blue eyes』『sweet jane』の2曲しか
やらなかったと思う。
 
しかしそれでもよかった。
3日通し券しかなくて観客がものすごく少なかった04年、
ルー・リードのライブ中のグリーンステージは涼しくて
ちょっと湿った夜風が心地よく、今では信じられないが、
PA後方くらいの坂になった芝生にごろんと寝ころびながら聞いた。
 
 
フジロックに来てよかったと思った。
 
 
そんなまったりしたグリーンステージに別れを告げ、
後ろ髪惹かれつつもホワイトステージに向かうことにした。
 
 
 
Basement Jaxxが見たかったのだ。
 
しかし初めてのフジロック疲労困憊、
グリーンステージからホワイトステージまでもこんなに距離があると思わず、
テンションも下がってきてしまった。足の裏も痛い…。
 
ほうほうのていでたどり着いたホワイトステージ。
ベースメントジャックスはもう始まっていた。
 
出たばかりのアルバムの1曲目『Good Luck』を
ゲストボーカルの黒人女性が激しく動き回りながら歌っており、
会場は爆発したように熱狂していた。
 
それを見た瞬間、今までの疲れがふっとんだ。
 
足の裏の痛みもすっかり忘れ、僕も熱狂のステージの前の方に走り出した。
 
 
今思い返しても、この時ほど、いわゆる「テンションぶち上り」を
体験したことはなかったように思う。
 
少なくとも今ではとても無理だ。
 
あんなに疲れた体が音楽だけでMaxボルテージに回復することはもうないと思う。
 
 
 
初めてのフジロックの一日目、大満足で終え、
しばらく深夜のレッドマーキーを冷かしながらオアシスエリアをうろついていた。
 
その頃は岩盤のDJブースがオアシスエリアのはじの方、
KARMAの出店の隣の窪んだ場所にあって、
ゲリラ的に色んな人がDJをしていたのだ。
 
そこで休んでいたら、元ブランキ―ジェットシティ、
その時は確かロザリオスで出演していたドラマーの中村達也さんがDJをしていた。
 
 
ブランキ―大好き少年だった私は、あの強面な中村さんがDJもやるんだ、
と意外に思いつつ前列の方に詰めかけると、ふいにブランキ―『D・I・Jのピストル』をスピン、
そこにいた何人かの人達は大喜びしていた。
 
もちろん私も。なんか得した気分になった。

フジロックの黒歴史!? 思い出のフジロック2004を振り返る①

先週末、中止になったフジロック2020の代わりにyoutubeで過去のフジロック
名場面を振り返る生配信があった。
 
私は2004年から2017年まで毎年行っていたので、
自分が生で見たライブもいくつもあり、
ビールを飲みながらノスタルジーに浸りつつ、盛り上がってました。
 
しかし途中でふと思ったのですが・・・
 
 
 
2004年のライブ映像が少なくない???
 
 
 
3日間すべて見ていたわけではないので確かなことは言えないのですが、
2004年のトリであるケミカル・ブラザーズルー・リードなどの演奏や、
フランツやホワイト・ストライプスなど話題だったライブもなかったような・・・。
 
 
2004年はフジロックの長い歴史の中で唯一、3日間の通し券のみ販売だった年で、
その結果、観客数は大幅に少なく、興行的に大失敗となった。
 
故に2004年のフジロックについて覚えている人も相対的に少なく、
語る人も少ないように思う。
 
そこへ来て先週の配信での2004年の少なさ・・・これって、まさか・・・
 
 
 
2004年のフジロックは、フジロック史の中で黒歴史のようになってない???
 
 
 
やはり、3日目のトリのアレがあったからか・・・!?
 
 
 
でも2004年のフジロックは私が初めて参加したフジロックでとても思い出深いし、
ラインナップも2005年に比べると確かに地味だけど、
いいライブがたくさんあったと思う。
 
 
そこで、フジロック公式が隠すなら、私が語ろう、2004年のフジロックの思い出を!
(※隠してないと思います・・・)
 
 
 
 
出発〜DAY1
 
初めてフジロックに行ったのは2004年。
大学の友達が居酒屋のバイト仲間達と車を借りて皆で行くから
一緒に行かないかと誘ってくれ、
私は一にも二にもなく誘いに乗った。
 
それまでもWOWOWで毎年フジロックのダイジェストを3DAYSで放送していて、
それを実家で録画してもらって繰り返し見たりはしていたが、
行った事はなかった。
 
テントも車も持っていないし、何よりお金がかかりそうなので、
貧乏学生の私は参加しようとは思わなかった。
 
しかし今年は友達のバイトの先輩が大きいテントも持っているし、
レンタカーも運転してくれるという。
 
ちょうど就活も内定が出たところで、
第一希望の業界ではなかったが、
(この年の翌年ぐらいまでが就職氷河期だった・・・)
もう辛い就活は終わりにしてフジロックに行こう!と決めた。
 
私は録画で見たフジロックの知見を活かし、
100均のビニールカッパ、
汗をかいていいように1枚数百円のサッカーシャツ数枚、
日よけに古着の帽子、
ドラッグストアで一番安い日焼け止めクリームなどを購入し、
見る予定のバンドの楽曲を徹底的に予習しながら当日を迎えた。
 
 
 
当日の朝、6:30に待ち合わせ場所の下北沢駅南口のファーストキッチン
(club cueの上)前に集合すると、誰も来ていなかった。
 
しばらく一人で待っていると、大学の友達、
そしてそのバイトの同僚たちが15分遅れぐらいで悠然と集まりだした。
 
男性は私と大学の友達、そしてバイトの先輩2人は25、26歳だったと思うが、
フリーターで下北沢の居酒屋でバイトをしながらバンドもやっているらしい。
 
2人とも人当たりが良い人達ちょっと安心した。
 
女子も4人いて、全員が居酒屋のバイトだったかは覚えてないが、
3人が大学生で、1人は保育士として働いているきれいな人だった。
 
日焼けした肌にサーファーっぽいファッションで、
ベン・ハーパー、ドノバン、ジャック・ジョンソンを楽しみにしているという。
 
全然聞いた事の無いジャンルの人達で驚いた。
こういう集まりがないと接点のないタイプの人なんだろうなあと思った。
 
しばらく皆でダラダラと話などをして、
ようやくレンタカー屋に向かい、借りた車に荷物を積み込み、
出発の準備ができるまで1時間ほどかかったが、
皆慌てる風もなく、妙にダラダラしている。
 
動作がゆっくりで、急いでいる気配がない。
 
後になってわかってきたが、皆本当にいい人たちなのだが、
急いだりてきぱき仕事をすることが苦手で、
万事においてのんびりしていた。
 
 
 
万事そのような感じであったので、
会場に着いてテントを立て終わったのが14時過ぎになってしまった。
 
しかもテントサイトのこれ以上の上はないというくらい頂上付近。
 
最初にも書いたが、この年、2004年はフジロックの歴史上唯一の
3日間通し券のみしか販売されなかった年で、
後から振り返ってみると来場者がすごく少なかった。
 
 
そんな年なのに頂上付近…
 
 
とは言えついに来た初めての苗場。
 
テントサイトから見下ろすグリーンステージの様子や、
その後ろにそびえる三国峠の木々を眺めているだけでテンションが上がってきた。
 
8人は各自行動ということになり、
私は事前に予習&計画していたコースで回るため、
会場を降りた後は一人でレッドマーキーへと向かった。
 
さあ、フジロックの始まりである。

今思うと2000年代が私の青春だった

2000年代。ゼロ年代。2001年~2010年のディケイド。
 
 
 
私は2001年の4月に大学に入り、青森から東京に上京した。
 
2005年に大学を卒業して、会社に就職。
 
その会社には2011年までいたので、ゼロ年代は前半が大学生活、
 
後半は最初に入った会社での生活ということになる。
 
 
 
その10年間、ずっと東京で生活していた。
 
 
 
もう覚えていない、東京じゅうのコートや公園でフットサルをした。
 
 
 
吉祥寺のタワレコや、下北沢のビレッジバンガード、神保町のJanis
 
国分寺の南口らへんにあった中古レコード屋、渋谷の本屋やレコード屋
 
飽きもせず通い続けた。
 
 
 
神楽坂の路地の店や、新宿のチェーンの居酒屋や、
 
竹橋パレスサイドビルの地下飲食街や、神保町、九段下など、どこかで毎週飲んでいた。
 
 
 
下北沢club queや、新旧のリキッドルーム、新宿redcloth、
 
幕張メッセでいくつものライブを観た。
 
 
 
住むところも三鷹を振り出しに、茗荷谷、北習志野、神楽坂と引っ越してきたし、
 
働いた場所も三鷹での塾のバイト、茗荷谷のスーパー、その他単発バイトいろいろ、
 
竹橋、三田と変わってきた。
 
 
 
2010年代に入ってすぐに今の会社に転職し、結婚して家族が出来、
 
小さな家も購入して落ち着いた生活になった。
 
貯金も多少できた。
 
 
 
しかし、2000年代はその全体を通して、収支はマイナスだったと思う。
 
 
 
そもそも大学卒業前後は日本全体が不景気だったし、
 
大学やその後通うビジネススクール奨学金という名の借金を負っているし、
 
最初の会社も薄給で貯金もほとんどなかった。
 
しかし楽しいことはたくさんあった。
 
金はないけど今と違って時間はあったし、好きな事を好きな時にできた。
 
周りの友達も皆若かった。
 
 
 
つまり、2000年代が私の青春時代だったのだ。
 
 
 
自分や将来に対する苦悩も多く、経済的には生活がきつかったが、
 
気楽で楽しかったこの時代に見聞きしたもの、
 
考えた事を思い出せる限り記しておこう、と急に思い立ち、
 
散文的に書いていくことにした。
 
 
 
私の2000年代の思い出を通して、
 
2000年代にあったことや、時代の空気、
 
20年経ってないのにもうだいぶ変わってしまった東京の記憶が
 
読んだ人に何かしらのきっかけになればよいと思います。
 

She was beautiful, but She was very grounded.

こんにちは。

 

今年の6月から、オンライン英会話を始めました。

主にフィリピン人のトレーナーと毎日、30分の英会話レッスンをしているのですが、

これが新鮮でけっこう楽しい。

 

最初はテキストに沿った内容で会話したりフィードバックをもらったりしていたのですが、

最近はテキストに入る前のスモールトークが少し出来るようになり、

ニュースや身の回りの出来事、お互いの国の文化や生活のこと、

コロナの事などを話していると話が盛り上がり、

テキストに入らずにスモールトークで終わることもしばしばです。

 

最近したスモールトークと、そこで覚えた(または直された)表現です。

 

 

■公園の砂場で子供と遊んでいたら、隣で遊んでいた子供のお母さんが某女優さんだった、キレイだったけど自転車の前後に子ども2人乗せて、普通のお母さんだったよ、という話。

 

・I had an intersting encounter.

 

・She was very grounded

(=acting like normal person even though he or she is popular)

 

・I didn't speak to her, because she was a private person.

(≠She was private)

 

 

■安倍首相が総理を辞職するのは健康上の理由って言ってるけど、それって海外ではどう言われているのか?という話。

 

・In my opinion

(In my impressionよりNaturalとのこと)

 

・his health is deteriorating

(=weaking)

 

・his support rate is going down.

(≠falling down)

 

Curses

(罵る、悪態をつく。ドゥテルテ大統領の話で)

 

 

■フィリピンのNo1ファストフードチェーン、Jolibeeはマックよりも人気がある、フィリピン人好みで味付けは甘いよ、という話

 

・condiment(調味料。フィリピンのバナナケチャップについて教えてもらいました)

 

・TGIF!(=Thanks God It's Friday!)

(もちろんあのファストフードチェーンの話になりました笑)

 

・simultaneously (=at the same time)

(どういう文脈でこんな言葉出てきたんでしたっけ・・・)

 

 

 

スモールトークの締めには、こんな表現がいいそうです。

 

・Nice catching up with you, 〇〇-san.   See you around.

 

 

 

単語自体はすでに知っているものが多くても、なかなか文脈の中で出てこないですね〜。

 

まだまだ先は長いです・・・。

 

Hard to catch up・・・. See you around.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狭いながらも楽しい我が家からお送りします

こんにちは。

私は現在38歳、妻と2人の子供と共に東京の目黒というところで生活しているサラリーマンです。

 

地方の人達が見たら信じられないくらいの狭小邸宅に住んでますが、

(私も地方出身なのでよくわかってます・・・)

狭いながらも楽しい我が家を目指して、日々楽しくやっております。

 

 

そういえば、『狭いながらも楽しい我が家』って有名な歌詞ですけど、元の英語ではどういう歌詞だったんでしょう。調べなきゃ。

 

この歌詞が歌われているのは『私の青空』。

 

ウィキペディアによると、元歌の”My Blue Heaven"は1928年にGene Austinが歌って大ヒットし、以降数々の歌手によって歌われてきたスタンダードナンバーだそうです。

(作曲:Walter Donaldson 作詞:George A Whiting)


 

youtu.be

 

 

 

私はこの曲を故・大滝詠一氏のバージョンで、彼の死後に出たアルバム『DEBUT AGAIN』の初回ボーナストラックで聞いて知りました。

 

 

  ”狭いながらも 楽しい我が家

   愛の灯影の 指すところ”

 

 

というサビの部分の歌詞ですね。とっても心に染みる歌詞です・・・。

そしてこれが元々の英詞です。

 

 

  ” I see a smiling face, a fireplace, a cosy room

   A little nest that nestles where roses bloom" 

 

 

・・・ん? 暖炉? バラの花? 

 

けっこう意訳なんですね〜。

でも仕事の帰路に家族を想うお父さんの気持ちはうまく訳せていて素晴らしいと思います。

 

でも意訳でふと思いましたけど、アメリカの狭い我が家と日本のそれは大分大きさが違うんでしょうね〜。

だって暖炉とかあるし・・・。

 

まさかGeorge A Whitingも現代の東京の狭小邸宅までは想像できなかったと思います。

 

でもいいんです。面積当たりの楽しさでいうと勝ってると思いますから!

 

 

 

ところでなぜ私が元の英詞が気になったかというと、私は今、オンライン英会話で英語の勉強を毎日しているからなのです。

 

今更ながら英会話をやり始めたのですが、全く言葉が出てこずに、それでもなんとか単語をつなぎ合わせて伝えると、

 

 

「すごい、よく言えたね!」とか

 

「この前教えた単語をもう使ってるね!」とか、

 

 

普段私が3歳の娘のおしゃべりに対して言っているのとほぼ同じ励ましの言葉をトレーナーにかけてもらい、泣けてくる毎日です。

 

なので最近は気になるフレーズや、「あ、これ英語でなんて言えばいいんだっけ?」みたいな表現をちょくちょく調べてます。

 

このブログではそうやって調べたりトレーナーに教えてもらった英語表現を備忘録的に残したり、時間があれば読んだ本の感想や、子育ての話、好きな海外サッカーの話なども書いていこうと思います。